当事務所の所属弁護士8名によるコラム(ブログ)です。

父への詫び状

父に詫びたいことがある。

向田邦子のエッセイに「父の詫び状」というのがあるが
今回はこれにあやかり「父への詫び状」とした。

父は、5年前に81歳でこの世を去った。
長く闘病生活を送り、そのため心の準備ができていたせいか
不思議と悲しみはあまり感じなかった。
母より父危篤との知らせを受け
翌日、岐阜の実家近くの病院に入院中の父を見舞った。
すでに意識はなかったが、小康状態を保っており
この状態は翌日も、翌々日も続いた。
そのため、その日の夕方、一旦東京に戻った。
すると翌朝、母より訃報が届き、その日の午後大急ぎで実家に舞い戻った。
こうした次第で、私は父の死に目に会うことは出来なかった。


もっとも、父に詫びたいのは、以上のことではない。

葬儀は実家近くの寺で行われたが
その寺の住職が父とは小学校の同級生ということで
父のことをいろいろ話してくれた(いずれも私が初めて聞く内容であった。)。

それによれば、
父は、高等小学校卒業後、京都西陣の呉服問屋に丁稚奉公した後
昭和20年18歳で兵役志願し、紀伊和歌山海兵団に所属し
人間魚雷「回天」で出撃予定だったとのことである。
すなわち、父は、18歳で死を覚悟し
実際、終戦がもう少し遅ければ、この世を去っていたわけである。
このとき、父は、何を考え、どんな思いでいたのだろうか。

私が18歳のときは、初めて親元を離れ
(以来、父とは二度と同居することはなかった。)
単身大学生活を送るようになった。
その頃、ジローズの「戦争を知らない子どもたち」が流行っていたが
「戦争を知らない子どもたち」は「戦争を知っている親たち」から
実体験を聞く義務があると、今、思う。
それは、自分の子どもたちに語り継ぐ大前提だと思うからである。

結果的に、父から戦争の実体験を聞く義務を果たすことはできなかった。
これこそ、父に詫びなければならないことと考えている。
この後悔があったので、父の死後、母に戦争体験を聞いてみた。

母は、戦時中、女子挺身隊として
三菱の工場で図面のガリ版印刷の作業に駆りだされていた。
終戦の年のある日、空襲の際逃げ遅れ
近くの防空壕がいっぱいで入れず
やむなく別の防空壕へ逃げ込んだのであるが
当初の防空壕は爆弾の直撃を受け
友人数名を含む全員が死亡したとのことである。
父のみならず母も死に直面していたわけである。

話を元に戻す。父のことである。

私が物心ついたころ、父はサラリーマンをしていた。
以来、81歳で亡くなるまで、こちらから聞かなかったにせよ
一度たりとも戦争の話をしたことはなかった。
今から思うと、あえて封印していたのではないかとさえ思える。
この先、その理由をじっくり考えていこうと思っている。

ところで、憲法9条の改正を目論む安倍晋三首相は
「戦争を知らない子どもたち」であるが
父安倍晋太郎(首相目前にして病に斃れた。)や
祖父岸信介(元首相で「昭和の妖怪」と呼ばれた。)から
戦争体験を聞いているのであろうか。

たぶん聞いていないと思う。
聞いていれば9条の改正など言い出すはずがないからである。