当事務所の所属弁護士8名によるコラム(ブログ)です。

大事にしたい「こころ」

最近、夏目漱石にはまっています。

きっかけは、過去の筑摩書房版の「現代国語」の高校教科書
(高校生当時の私は違う会社の教科書でしたが)
に載せられた名作ばかりを集めたちくま文庫のアンソロジーに、
漱石の「夢十夜」、「こころ」の抜粋、「私の個人主義」
などが搭載されていたことからです。

若く未熟なころには名作を読み解く「能力」も、
そこからなにごとかを読み取る「感性」もなかった私でしたが、
中年に達するに至り、ようやくというか、
漱石をはじめとするこういった名作の持つ深みや味わいが、
少しだけわかってきたような気がします。


以下は、まったく私自身の個人的な感想ですが、
漱石の場合、明治期の日本に現れ、
主にいわゆる「インテリゲンチャ」「高等遊民」層を中心に勃興し、
台頭しつつあった、近代的・功利主義的な人間像
(これは現代日本人にもずっと通底してきているものと思われます)
に対する批判的な視点、「視点」というよりもむしろ、
「嫌悪感 (私が勝手に名付けている処の「うんざり」感)」
ではないかと私には思えますが、
そういったものが作中のところどころに強く噴出している場所があります。
それは早くも「坊っちゃん」あるいは「三四郎」のころからみられたと思いますが、
前述の「こころ」の中にも、そういった箇所、場面が多々みられます。

以下は、その「こころ」の中で、私の印象に残った文章の一つです。

奥さんの言葉は少し手痛かった。
然しその言葉の耳障からいうと、決して猛烈なものではなかった。
自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、
そこに一種の誇りを見出す程に奥さんは「現代的」でなかった。
奥さんはそれよりももっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。

 ( 新潮文庫版 『こころ』 p.53 )

漱石には、自分に頭脳のある事を相手に認めさせるために、
御大層なきれいごとばかりを並べ立てながらも、
結局は自己満足に終始しているような、知恵誇りの小利口者、
現代の日本でもそこら中にいるような、そういった日本の「現代人」が、
たまらなく嫌らしく見えたのかも知れません。

この点は私も全く同感です。

仕事の上でも生活の上でも、表面的なきれいごとやロジックなんかよりも、
「もっと底の方に沈んだ『こころ』を、大事に」していきたいと思ってます。